7日目・「Witch's Invitation」



ランプシュガータ

by 維流





 君は嘘が得意だった。卵の色の焼きたてスポンジケーキ、冷たい月夜の果樹園の、林檎のジャムを手に取って。僕は君を知っていた。美味しそうなホールケーキの隠し味には蜥蜴の尻尾。熟れた赤林檎の中身は致死性。でも君は気づかなかった。僕の嘘に気づかなかった。


(1)



 枯れかけた森を行く人がいた。立ちはだかった大きな茨の茂みを前に、死にかけた森の中で、無防備に呆然と立つ。痩せたその手には使い古したトランクと本を持っている。重いコートは何故か冷たく、彼の肌を温めてくれようとはしない。青年オルガは冬の終わりに立っている。時折頭上から、硬く脆い葉が数枚落ちてくる。声の無い生き物たちが彼を見ている。足元の枝葉は遠慮の無い音を立て、人はただ立ち尽くすことすら許されないようだ。オルガは右手を意識して、そこに譜面があることを確かめる。黒い表紙の譜面である。背表紙にはなにか薄青の文字が刻まれているが、細く歪んでいるので読み取れない。オルガはその意味を知っている気がする。何か行動を示すように指が震える。きっと知っている。だがこれは確かに、今日初めて逢ったのだ。彼の一生の中で初めて。だから覚えなど無いはずだ。


 オルガは重いバッグを地面に置いて、左手でゆっくりと茨をかき分ける。赤みが覗く茨の向こうはまだ見えない。彼はまたトランクを取って、冒険に恐れを成すこどものように身をかがめ、棘だらけの壁へ入って行った。
彼は進んだ。服の布地は破れ一々棘に引っ張られては邪魔をした。彼の頬に細かく切り傷がつき、うっすらと血が滲む。オルガは気にはしていなかった。絵本のような厚い表紙の譜面を腕で庇いながら、苦難してようやく藪を抜けた。太い木々の中に立ってオルガは荷物から棘を払い、顔を上げる。そこには広い湖がある。とても広大な澄んだ水面。小さなさざ波が立ち、老いた森とはうって変わって彼を歓迎する。高い木々が無いおかげで空が見えたが、白い雲に覆われて陽は弱い。白っぽい光が波に当たる。きらきらと光が跳ねる。幾千のコインほどの妖精が戯れるかのように、それはあちこちに移動する。広い遊び場に住むように。
茨を背に、オルガは何を見ても憂鬱そうに辺りを見渡す。湖の遠く向こうには溢れんばかりの蒼い森が広がっている。しかし葉をつけた木々はどうしてか、くすんで見えるのだ。


 オルガは踏み出し、柔らかい土の上から湖を覗き込む。反射する光を両手で遮る。妖精たちは散り散りになった。彼はそれも見ていない。彼に対して、幻想は介入できないのかもしれない。


 森に囲まれた湖の中は暗い。茶色の枝葉を映しているより奥は見えない。オルガは目を離し、膝に手をついて立ち上がる。ふと右を見て、遠くに見えるのが木々しかないことを確認すると、左を見る―――。そして見つけた。それはすぐ隣にある。案外近くにあったものだ。長い間探していたものは、自分の靴の下にあったのだ。ずっと、あったのだ。彼の元に。


 オルガはしばらく横目に眺め、盗み見るようにして思案した後、歩き出した。譜面は胸に抱えている。大きく視界を占める建物に、彼は手を伸ばす。何も見えていないかのように、正面を向いたまま壁を伝って扉を探る。固いドアノブに手を掛けて引く。そして荷物を持ち、低い扉に潜った。頭上には灰色の雲が集まって、雨の匂いが漂い始める。そして湖の灯台は自らを閉じた。


 彼は小部屋へ入った。厚い絨毯が敷かれた床の面積は小さいが、天井は頭上遠くにある。部屋の中は雑多に彩られ、細かな刺繍のされたタペストリーで囲まれている。それらの赤い絵柄が横並びに見せているのは、神話に似せた稚拙な物語である。オルガは首をまわして場面を辿る。初めはおそらく正面の絵、その両隣に二つ、太陽の位置が同じ同時刻の場面が続く。物語は二つに分かれて進行するのだ。全部で十八枚のストーリーは、訪問客の背後の扉で結末を迎える。オルガは肩越しに振り返る。そのとき、唐突に彼の腕にしがみつくような重みがかかった。細く硬い指が絡みつく感覚だ。彼はトランクを下げた腕を持ち上げてみる。キュイイ、と奇怪な声を上げて、手首に絡まった細い腕が揺れている。彼はいつも通りの憂鬱そうな目を向けて、不思議な壊れ物を眺めた。何かの飾り物でもない、ただ黒くて細い手首だった。手首の先には切断された跡があり、当然腕の持ち主はいない。それなのにまるで生きたもののように力があり、加えて前後に揺れているので一層邪魔である。腕はなおもアクセサリーのようにぶら下がって離れない。嬉しがっているのだな、とオルガは思った。黒檀のような黒い手には生々しいおぞましさは無い。単なる幼い生き物なのだ。そして無邪気にしがみついてくる手首を振り払いはせず、彼は当然のように腕を下ろした。そのまま正面へ向かおうとするが、またもや障害物に足をとられる。箱状のテーブルに、白いカップが置いてあった。中身は濁った紫色に見える。健康体に害を及ぼしそうなことは明らかだが、液体からは甘いにおいがした。その上でめまいに襲われるオルガを、黒い腕が暴れて戒める。コーヒーカップは泥棒除けか、と解釈して、オルガはテーブルを大きく避けて通った。


 正面には物語の初めのタペストリーが掛かっている。厚い布地に赤い刺繍。彼はそれを捲り、奥に現れた扉を開けた。彼の後ろでは、不自然な家具の物音が鳴り響いた。


(2)



 扉の先は豪勢な食事会場だった。終わりの見えない、長いテーブルには白いテーブルクロスがかけられ、その上を色とりどりの料理が埋め尽くしている。近寄ってよく見てみると、大きな皿に盛り上げられたそのほとんどが甘い菓子や果物だった。どれもが新鮮に輝き美しく整い、一点の欠点も見つからない。オルガはその内の砂糖漬けベリーの皿に目を引かれる。透明なガラスの皿の中で、青色の実が光っていた。


「もしもし」


 ガラス皿に見入るオルガの肩を叩き、気配の無い声が喋りかけてきた。長い茶髪を振り乱した、痩せた女だった。


「あなた、テーブルがそんなに珍しいの」


 女は落ち窪んだ目で問い掛ける。オルガの肩に置いたままの手は骨張り、爪が伸びていた。その手にやたらと力が入り肩に食い込んでくる。


「木製のテーブルなんか他所にたくさんあるわよ。なにも私たちの憩いの邪魔しなくってもいいでしょう」


 訴えかけるような目を向けて、女が静かに話す。しかし彼女はみるみるうちに顔が青ざめ、腕を震わせながら憑りつかれた者の呻きを上げ始める。


「そうよ、なんだって私の家に入ってくるの……私の家を壊すのね、なぜなの」


頬は蒼白で隈の濃い目元は赤らんでくる。鬼気迫る悪魔の形相で、彼女は叫んだ。


「私の家は崩れた……私も同じね、あなたも同じ」


 同じ、皆同じ、と呟きつつ女はオルガを離す。枝のような手を握り締め、汚れたスカートを引きずって部屋の壁際へと去った。彼女の周りには同じ髪色をした人たちが集まっている。彼女が戻ると、皆が一斉にこちらへ目を向ける。オルガは彼等の憎悪に満ちた顔を見、ゆっくりとテーブルに沿って歩き出した。豪華な食べ物には一切手を付けた跡がなく、すべてが完璧な状態で並んでいる。気がつけば部屋の中には大勢の人がいて、それぞれが勝手な動きをして雰囲気すら異なる。その顔を照らすシャンデリアの明かりは、皆に等しく降り注いでいるから不思議だ。その誰もがどうやらメインの食事を楽しむ気は無いようだが、パーティーらしく楽しそうに賑わっている集団もある。必然的にオルガが近付くと、彼等は一層楽しげに怒鳴り声を上げた。


「見ろ、あいつ。ばかでかいケースだな。あれできっと手品をやるんだな」
「そうだ、それで俺らに見せてくれんだよな。きっとネジの付いた天使なんだ」
「あいつは神様のつもりだぜ。今に一言で天国を見せてやるなんて言い出すよ。ほら、見なよ。あの退屈な顔!」


 活気のある大男たちはオルガを指差して笑う。大きな笑い声は低くくぐもって不気味に響く。ぶしつけな視線と嘲りの中でただ一人遠慮がちに、一番若い、オルガと歳が近いように見える青年がこちらを眺める。彼の目には輝きが無い。


「違うよ、彼は」


何が違う、と大男の一人が青年を睨みつけた。
「彼は神様じゃないんだ。天使なんか見ていないんだ。だから彼は」


 可哀想なんだ、と言って、青年はオルガから目を離した。男たちは何も見なかったかのように宴会を続けた。


 次にオルガを引き留めたのは、彼の袖を掴む小さな少女だった。彼女はオルガを見上げ、ほんの少し口角を上げて、微笑んだようだった。


「だいじょうぶ、みんな私が守ってあげる」


 おそらく十歳ばかりの少女は舌足らずにそう言って、裂けるほどに口元を引き上げ、しっかり握っていた袖を離して駆けて行った。彼女を迎えたのは一様に紫の肩掛けをした聖職者たちだった。彼等はオルガの姿を見ているのか見ていないのか遠い目をして、明るい照明の中で佇んでいた。


 オルガは暗い目でそれを見て、歩き出そうともう一度正面を向いた。すると目の前に麻のような長髪を床まで伸ばした女が現れ、申し訳なさそうに眉を寄せて、小さな声で尋ねた。


「見かけましたか、あのひと。あのひと、見かけました」


 誰かを捜す素振りをしながら何故か目を瞑ったままで、女は焦ったように首を振った。


「いないわ。やっぱりいないの」


 両手をもみしだいて泣き出す様子の女にさえ、明るすぎるくらいの照明が降り注ぐ。オルガは震える女の肩越しに、ある人物を認め、譜面を持った方の手で示した。


「向こうに」
「いないわ。どうしよう」


 女は大きく首を横に振り、オルガの声に気付かない。


「彼は向こうに」
 そしてとうとう女は泣き始め、一度も開かなかった目で天を仰いだ。眩しい明かりを太陽とでも思ったのだろうか。鍵の付いたような瞼からは涙が滲んだ。


 オルガはふと眉をひそめ、それまで一切の揺れも生じなかったような感情に波を感じた。初めて起こったのではない。ただ思い出しただけのようだった。彼は床に膝をついた女の横を通って、テーブルに沿って長い部屋の出口へ急いだ。生気の無い人々と白い照明で眩暈がしていた。白いクロスに手を添えながら、彼がおぼつかない足取りを引きずる先には一面金メッキの鉄製扉が構えている。仰仰しく輝いた扉は人を圧倒するようで破滅を予感させている。その扉の傍に人影があった。枝のように絡まったぼさぼさの髪は、まるで黒い頭巾でも被っているかのように額を覆っている。オルガは逃げ場を失くした網の魚の心地になって、金メッキの扉と黒い人物とを見比べて立ち止まった。


 人影は扉の壁を背にして俯き、深く考え込むように固く腕を組んで立っている。隣の金箔によってその陰影が目立つが、長い間待ちぼうけを喰って憔悴した普通の青年にも見えた。無意識のうちに、もしくは確かな理由があって、オルガが彼を見据えていると、彼はゆっくりと重い頸を起こして目を上げた。油の足りないブリキ人形のような音を立てて、彼の頭が起きる。彼の頸周りは錆び色の鎧が囲っているのだった。強い不快な金属音が鳴り、ようやく顔を上げた彼は老人の顔をしていた。アーモンド形の素直な大きな瞳は潰れたように皺に埋もれ、青い顔には質の悪い病に罹った赤みが見える。重い鎧を身に着けて、十数年全く同じ場所に立ち続けることができたのなら、きっと彼のような無惨な姿になったのだろう。放棄された兵隊人形のような恰好で、彼はオルガをじっと見つめ、萎んだ眼球を見開いて非難のまなざしを向けた。オルガはその目を律儀に見返し、永久の門番を定められた騎士への同情の思いを抱いた。若いままに老いてしまった青年は、かつては生きる意味すべてだった恋人をも忘れ、ただこうして無価値な晩餐会を見守り続けるだけなのだ。この世のすべての人を天秤にかけても譲れない、大事なあの少女がもはや自分の目前をさまよって倒れてしまおうと気づかない。鎧に埋まった彼の目は、見えもしない遥か遠くの過去へと向けられている。


 オルガがその目から思いを汲み取ろうと立ち尽くしていると、突然、老いた青年は固まった腕を無理やり伸ばし、オルガに掴みかかった。とても耐えられない、骨のひび割れた凄まじい音が鎧の中で反響する。哀れな門番は霞んだ目を血走らせ獣のようにオルガの肩に縋りつくと、その背を限界まで捻って渾身の力でオルガの身体を投げた。青年の背中が古い木のように乾いた惨めな音を立てて崩壊する。青年は呻き声ひとつ上げずに宙を舞って床へ落ちた。


 オルガは両手の荷物ごと扉へ転げ込んだ。金色の扉を全身で押し開け自らの身体を下敷きにして、トランクと譜面を抱え込み、仰向いて倒れた。そのとき気づいたが、右腕の辺りでもがくような感触がしたから、まだ例の黒い手首はついて来ていたらしい。オルガの厚いコートの布に掴まって床を這い、また彼の腕を握りしめた。オルガは鈍い痛みを後頭部に感じ、怪我を押さえようとして手を伸ばした際、その黒い手首が偶然頭に触れ、直後痛みが皆無であることに驚いた。どこかの国では手首はまじないの一つで、呪術や療法にも使われることがあるらしい。だがこの不気味に腐ったような、黒檀色の切断された手首が何のまじないの一種であるかは見当もつかない。


 オルガは一旦倒れたままで腹の上の荷物を抱え、自分の周りを見渡した。仰向けに寝転んでいるため視界に違和感を覚えることはあるだろうが、今は平衡感覚すら怪しい状況だとわかった。周囲は赤紫色のきらきらしたブレスレットや宝石やら小さめのガラス瓶やらガラクタでごった返し、それも天井以外の全ての壁を埋め尽くすほどの量が見えた。食事会場のような白々しい照明は無く、一つ目の部屋よりもずっと暗く、冷たい洞窟の静寂を保っている。ここは急勾配の階段だ。剝き出しのコンクリートの天井と地面以外の両壁にはガラクタが山積みになり、危険な均衡を保って暗いバラ色のアーチをつくっている。


 暗い輝きの中で、慎重に手をついてオルガは体を起こし、階段を滑り落ちないか注意して立ち上がった。正面に扉がある。鉄が剝き出しの大きな扉は、さながら牢屋の入り口だった。彼は狭い一段を踏みしめ、おそらく階段が続いているであろう背後を向くがそこに階段は無く、踊り場のような空間をただ雪崩れてきそうな雑多な古道具ばかりが占拠していた。千切れた装飾品の一部が彼の行こうとする階段にまで散らばり、もはや足の踏み場もない。


 オルガは目に入った階段だけを信じて周りを確認もせずに、やけに重くなったトランクを引きずって降り始めた。その場で一周でもしたなら、彼は吐き気の中で崩れるように落ちて行ったはずだ。彼の足元を危うくしているガラクタだって、彼にとっては意識を保つための材料だった。


 直線だか曲がりくねっているのだか分からないまま彼は進んだ。背を伸ばして立っているのか這いつくばっているのかさえよく分からない。視界にぐらぐらと水中のような歪みが生じている。雑多なのに単調な景色には催眠効果がある。


 オルガが見ているのは不明瞭なガラクタとの距離であり、それが遠い方へ歩いているだけだったから前進しているのかも不安だ。もしかすると元の道を後退しているかもしれない。だからといって振り向くわけにもいかない。オルガは自分自身が壁に触れないよう細心の注意を払った。もし指先一つ触っただけでも、簡単にこの空間全てが崩れこわれてしまうと思った。
先には同じような赤紫の景色が続き、酩酊したような足取りにもどかしくなり、彼は先を急ごうとふいに身を乗り出した。すると地面は頼りなく揺らぎ、彼の目先に猛然と迫ってきた。彼はコンクリートの床に倒れ込んで肩から滑り落ちていった。自らの足を引きずるよりも大分はやく、意識の無い彼は最後の目的地へと辿り着いた。


(3)



 ワイン色の液体が小瓶の中で揺れる。固くコルクで栓をされたガラス瓶には一筋のヒビが入り、その裂け目に紫の筋が入り込む。そして瓶は割れてしまった。砕けたガラスの間を縫って、細い蛇のように薬が近づく。平衡の床から身を引き剥がし、それは紫色の鎌首をもたげた。


 ―――オルガの首を何かが撫でた。はっきりしない頭を無理に働かせ、彼は慌てて飛び起きる。彼の足元にはまた、金色をした扉が備わっている。同じ場所へ戻っていたのか、と朦朧とした頭で失望するが、微妙な違和感に気付いた。そもそも今見ている扉はさほど大きくはなく、むしろ小さすぎるほどだ。加えてこの扉には焦げたような銃創が残っている。まるで誰かと扉を隔てて撃ち合ったような有様だった。もっともオルガはそれを、寝転んだ姿勢で横から眺めていたわけだから明確ではなかった。彼は自分の身体がコンクリートではなくベッドに寝ていることを知り、そのうえ床は磨かれた木造であることを知った。彼は壁の方へ向けた顔を上げ、緩慢にベッドから床へ立ち上がった。ベッドに投げ出されていた黒い手首は慌てて彼の腕に飛びつく。重いトランクはベッドの脇に立てかけられている。あの譜面だけは彼の手にあった。オルガはトランクを持ち上げるともう一度だけ扉を見、狭い部屋を振り返った。部屋の中は本だらけだった。分厚い専門書から子どもの絵本、大きな図鑑や辞書に混じった幼げな寓話集やらで溢れ返っている。あちこちに置かれたり垂れ下がっていたりする角灯の明かりが木の床を照らし、この部屋を小さな童話世界にしていた。


 そして床に積まれた埃っぽい本の上に、一人の少女が座っていた。


 オルガは彼女に目を留めた。逡巡する彼の腕に細かな振動が伝わる。真っ直ぐな白髪に顔を隠した少女は、猫のように丸めた背を震わして呼吸をし、首を傾けてこちらを向いた。


「……君」


 彼女の瞳が灰色に輝いて、悲しみか喜びか少し歪んだ。その瞬間彼の腕から重みが消えて、黒檀色の手首が落ち、木の床に当たって砕け散った。確かに生きていたはずのそれは陶器のように破片となった。


「……あら」


 少女は今度は明瞭に笑顔を見せ、頬杖をついて彼を眺めた。


「来たの」


 彼女は幼い目元に嘲笑のような皺を寄せた。小さい身体ですべてを分かった憂いを見せる。唇を噛んで呆然と彼女を見下ろす青年に対しての気持ちばかりの愛想だろうか。しかし彼女はすぐに笑顔を失くし、暖炉の灰を塗ったような瞳を伏せた。その白い右腕はだらりと下がり、二の腕の切断部から赤紫の血液を覗かせている。それを見て、彼は思わず少女に歩み寄ろうと踏み出した。すると少女は彼を見据え、きっぱりと言い放った。


「あなたのことは待っていないの」


 悲しそうにふさがりかける目をそれでも大きくこじ開けて、彼女は冷たい声で続けた。


「……ランスロット」


 残った左手を握りしめて、彼女は目を見開いたまま涙を流した。その涙は彼女の血と同じ赤紫色だった。ランスロットは思い出す。その色は蘇生薬の色だった。


(4)



 冷酷なほどに動かない心を持った沈着冷静な青年オルガは、少女の惨い涙を見て崩れ落ち、固く目を瞑り謝るように手を掲げて床にひれ伏した。彼が少女の肩をさすることも、少女が彼に駆け寄ることもなく、ただ再会の奇跡は嫌悪に満ちて淡々と行われた。彼は深い古傷を思い出したように痛み始めた頭で、錆びついた記憶を辿った。


 まず彼自身の大切な事実としては、ずっと昔の王国伝説が関わっているということだった。伝説に彼が外せないとも言えた。


 昔ある国の王様は、海に隔てられた島国たちを統治するため、島一つに対して一人ずつ、確かな腕を持った騎士たちを送った。彼等の才能は様々で、一騎当千の武力を誇る者や人を率いるカリスマ性に富んだ者、鍛冶に長けた者や策略家など、その誰もが受け持った島を首尾よく治めていった。青年騎士ランスロットもその一人であった。彼が任されたのは大きな島に挟まれた、湖に浮かぶ小規模の島だった。彼の誇りは、若いながらも秀でた自らの剣術であり、他の騎士に劣らない手腕で小さな島を統治した。巧みな話術を持たない彼が受け入れられたのは、争いも無く暮らしてきた島民の、平穏な心の成せる業であったかもしれなかったが。


 ともかく彼は容易に島の主となることに成功し、そこに権威を示す立派な城まで設えてもらったのだが、彼は城主となるのを固く拒んだ。彼は十分に満ち足りていて、寝床さえあって後は島の警備ができれば満足なのであった。彼の無欲さを島民たちは称え、以降城は島民の会議や祝い事などに使用されるようになった。彼等の敬意を集めるランスロットには多くの仲間ができ、島民にとっては珍しいばかりの武具は彼の象徴となった。まったくもって幸福な彼であったが、常に戦闘の不安を抱き一時たりとも警戒を怠ることは無かった。重い鎧は時に彼の身体に負担となり、島で生活をするようになってからは脱いでいることがほとんどだったが、彼は何があろうと必ず傍らに自らの剣を置いておくのだった。それは城を持たない彼の唯一の権威となった。


 彼を特に歓迎したのは島の若い男たちだった。彼等は鍛えた身体を自慢するのが趣味で、ランスロットが島へ着いて真っ先に声をかけたのが彼等だった。ランスロットは特別親しくするつもりは無かったものの、生活の大部分は男たちの話の聴衆になった。それほど島は穏やかだった。怒号が飛ぶのは高波を恐れる嵐のときくらいだったのだ。


 そしておそらく他の大部分の島に比べて非常に平穏だったランスロットの湖上の島に、あの災難が流れ着いたのは、いつもと変わりない夕刻のことだった。彼はそろそろ仕事場から帰路に就く頃の島の人々を見守り、赤く幕を下ろした空を仰いで見回りをしていた。王が遣わしたのは、国中で屈指の力量を持つ騎士の一人である彼だけで、他に引き連れた部下もいなかったのだ。


 小さな島を回ってまた、彼の住居である湖の灯台へ帰ろうとする途中、彼女はいた。昼間は漁の収穫を並べて売っているため賑わう店を背にして、彼女はささくれたベンチに腰を下ろしていた。迷ったのかとも思うが、こんなに狭い島の中で自分の家を見失うはずがなく、途方に暮れたように膝を抱えているのが気になった。辺りは人気が無く街灯も無い島のため、いくら平穏であろうと放ってはおけないのが普通だった。夜はまったくの暗闇なのだ。彼女が根気よく何かを待ち続けたところで迎えは来ないはずだった。「どうしたんだ」と尋ねる。よほど疲れているのか、眠っているようで彼女の反応は無かった。


「おい、日が暮れたぞ」


 帰れない事情があるから夜になっても一人ベンチに残っているのだろうが、ランスロットは少女を見下ろして追い立てようとした。やっと顔を上げた少女は彼に気付いても答えずに、やつれた表情で荒く息をするばかりだった。


 ランスロットは彼女の肩を掴んで立ち上がらせ、せめて家の方向を知ろうと骨を折った。彼女は力なく頭を傾けて歩こうともせず、自分の重みすら支えきれないというふうによろめいた。華奢な少女は彼にもたれて眠ってしまった。彼は困り果てて彼女を起こそうとするのだが、全く目を覚ます気配の感じられない少女を抱え、結局自分の誠意のために自分の寝床へ寝かせてやることにした。湖の縁に沿って少女を引きずって帰ると彼女をベッドへ投げた。放り込まれた少女は寝床で丸くなり、ようやく静かに眠りに落ちた。
 翌朝、灯台の外壁にもたれて寝ていたランスロットの前へ少女がしゃがみこんで、灰色の目で彼の顔を覗き込んだ。


「なんだ、子どもじゃない」


 彼女は安心したような期待外れだったような声を出して、彼の肩を揺すった。


「元気なら勝手に帰れ」


 少女は驚いた表情で、「あなた誰」と聞いた。彼は気分を害して何も言わずに眠ったふりをしていた。すると少女は拗ねたように彼を揺さぶって、返事がないことを知るとふいに飛び上がった。何か喚いて砂の上で地団駄を踏み始める。やかましい奴だ、と彼が目を開くと、少女は彼の剣を振りかざして湖へ投げ込もうとしている最中だった。慌ててそれを取り押さえて剣を取り戻すと、なぜ簡単には解けないはずの腰紐が解かれているのか不思議で仕方なくなった。少女はけらけらと笑っている。子どもらしい繊細な髪は真っ白で、鋏でぶつ切りにしたような短髪だった。解放された少女は一目散に灯台へ駆け込んで行ったので彼はそれを追わなければならなかった。鉄の枠組みがされた扉を開けると、先の小部屋の丸テーブルに、あり得るはずのない豪勢な食事が輝いているのを見た。ランスロットは訳が分からなくなって閉めた扉に背をもたせ、今朝の一切は幻であったのだと信じ込もうと目を塞いだ。少しして、微かな湖のせせらぎの音に交じって静かな声がかけられた。


「ねえ、せっかく作ってあげたのに、食べないの?」


 彼女こそが超常現象の原因であることを悟った彼に、少女が問う。


「あなたはわたしのこと知らないんでしょう?」


 お礼なのよ、と彼女は残念そうに言った。そして彼の手を掴んで、未だかつて見たこともない豪華な食卓へ連れて行った。その内の砂糖漬けベリーをつまんで自分の口へ運び、ネズミのように齧る。彼は毒見でも確認したかのように警戒を解き、同じものを取って噛んだ。おかしな音がして彼はやっと気が付いた。彼の歯が齧ったのは硬い石ころだったのだ。そうなると食卓にある全てがただの石ころに見えた。テーブルには綺麗なガラス皿があって、その上にはたくさんの石が積まれているのだ。あっけにとられる彼を見て、少女は朗らかに笑い声を上げた。


「楽しい?面白いよね?そうなの。わたしはそうなのよ」


 不可解なことを言い、彼女は笑顔のままで彼の腕を振り回す。昨夜の憔悴しきった顔からは想像もできない活気にランスロットは再度困り果てていた。


 そしてランスロットは、いつの間にか、不思議な白髪の少女の世話をすることになっていたのだった。彼女の保護者に頼まれた訳でもなく、確実に自分の意志とも言い切れず、やはり彼女自身の意志によって、食事の確保や寝床の提供などをするようになった。彼女の一切合切が面倒ものであったけれど、食事については本当に厄介だった。彼女はランスロットが持ち帰った食料を「料理するから」と言って簡易式の台所へ運び、名料理長のような腕前で豪華な料理を仕立て上げ、彼に振る舞うのであった。しかしその料理のほとんどが偽物であり、初め一度だけ本物の味がしたのを信じて痛い目に遭ったことがある。彼女の料理は美しく、見た目は完璧なのに食事としての価値はないのだ。どれほど良い外見でも、腹を満たさないのでとんでもない迷惑だった。当の本物の材料はというと、全部彼女が独占して怪しげなまじないに加工していた。彼が統治者としての業務中に差し入れされた、モモ味のカシューナッツなどは育つ過程が考えられないからきっとそうだ。他の食料も食べきれるはずは無いから、きっと彼女の呪文によって、どこかの家具にでも姿を変えられてしまったのだろう。そう思うと気軽に木椅子に座ることもできず、書棚を開ける気にもなれず、室内の何もかもを疑って過ごすのだ。結局それは単なる杞憂で、彼が買って来たチキンへ刺そうとしたフォークがそれだった。掴んだ瞬間にフォークが飛び跳ね、床の上を逃げ回ったから彼は呆れ返った。フォークは魚だったのだ。新鮮な魚が水を求める姿を思い浮かべ、へばってしまうのを待っていると彼女がやってきて桶の水をぶちまけた。魚のフォークは流れに乗って扉を出て、そのまま湖に戻って行った。一体どうやって生きていくのだろうかと彼は同情したものだ。


(5)



 灯台の中での摩訶不思議な少女との共同生活は、理解を超えながらも案外緩やかに時は進んだ。もし彼女を見つけたのが彼でない他の誰かだったなら、こう上手くは歯車が噛み合うことなどなかっただろう。青年騎士は他人を凌ぐ才能を持ち合わせていたし、事実それを持て余すことすらあったのだ。しかし度を過ぎて常識を逸脱している彼女の前では彼の力など猿真似以上には感じられず、ふとしたときに彼は自らの命さえも彼女の手の中にあるような、地面の揺らぐ錯覚に陥るのだった。そんな彼の危惧を知ってか知らぬか、少女はまた無邪気な悪戯を考え出しては同居者である彼の反応を楽しんだ。彼女は腕の良いまじない師の子孫だと言う。名前を聞くと首を傾げて口をつぐんでしまうので、彼は数回後に諦めようと決めたのだが、彼女はある日、いつもの悪戯の声の調子で呟いた。「シュガータ」と聞こえたので彼は少女をそう呼ぶことにした。彼女は本物の紅茶を淹れては大量の砂糖を投入するのが日課で、それも形の整った角砂糖がお気に入りのようで、彼女の部屋の小さな倉庫には常に角砂糖のビンが備えられていた。名前を口にしたのも紅茶のカップへ角砂糖を落としている最中だったので、“シュガータ”というのはただの聞き間違いかもしれなかった。だが彼女は彼の呼ぶ名前を否定もせず、名前を聞けばちゃんと振り向いた。白髪の呪い師シュガータは悪戯を思いつかない時には灯台の波戸場の先へ座って黙って一日を過ごしていた。灰色の目が何を思って何を見ているのかは分からなかった。


 ある日、シュガータはいつもの波戸場に立って、広い湖を眺望していた。他ならない彼女への責苦は、広大な海のような湖から追ってきていた。非常識ながらに安泰だった彼らの生活を、突如襲った荒波は容赦のない真実を運んできた。


 その日彼女は倉庫に仕舞われていた絵を発見し、感動したのかそれを持って出かけたのだ。絵の題名は「天翔る人」と下手な金釘文字で書きなぐられていた。彼女は絵を放ると自ら湖へ波戸場を蹴った。ランスロットは灯台の中からそれを見て、息を飲んで見守った。彼女は少しの間空中でもがいて、重力に負けて湖に落ちた。物を化かすまじない師といえども空を飛ぶことは叶わなかったらしい。不満そうな顔で戻ってきた彼女が灯台へ入ったとき、ランスロットは湖の上の大船を見た。漁船や輸入船ではない、紛れもない戦闘用の装甲だった。彼はそれがまだはるか遠くのシルエットである内に、急いで島の本港へと走って行った。果たして船は明らかに戦闘準備の整った砲台を乗せ、物々しい黒色の鎧を軋ませ、権者の格好をした遣いが降りてきた。彼は重要連絡のときの王国の常で、黙って黒い文書を渡した。そして船は物も言わずに港を出て、元の島へ戻って行った。黒い冊子には五線譜が書き込まれていた。ふつうの譜面を模った文書の最後の頁には、必ず機密事項が書かれていると彼は聞いていた。そこにあったのは“魔女”の文字だった。重大な使用禁止命令の出された薬品を排除するための殺害指示だ。王のいる本島では深刻な問題に発展しているとのことだった。処刑予定の“魔女”である彼女は本島を逃げ出していたのだ。


 ランスロットは第一に“魔女”を思った。機密文書の唐突な言葉であったが、面食らうこともなかった。“彼女”を思ったのだ。そして次に不自然な領地の配分と騎士たちを思った。自分を含めた国内屈指の騎士団は、“彼女”の抜かりない逃亡阻止の役目だったのだ。そして彼女は牢を破り海をさまよい湖へ流れて、遂にこの孤島へ着いたのに違いない。“魔女”はシュガータのことなのだ。彼女は追っ手を警戒しながらも王の気長な計画に捕まり、まだ子どもの年齢の騎士団員に気を許してしまったのであった。


 ランスロットは黒い譜面を抱えて腰の剣に手を添えて、灯台へ走り込んだ。利き手は今にも剣を抜けるほどに力が込められ、切迫して震えていた。
 戻った彼が扉を開け放ち、彼女を見て言った。


「違うのだろう?」


 髪からまだ水を滴らせている少女は灰色の目を見開いて突然の尋問に驚いたが、その目に黒い譜面が映るとすべてを理解し、彼を見上げた。


「違う」と彼女は言った。「薬なんて作れないの」と付け加えた。


 ランスロットは彼女の腕を掴んで、扉へ走った。「行こう」と言って、彼は部屋を出て木の橋を渡り、浜を抜ける。シュガータは俯いてついて来た。


 ランスロットは何の明証もないままに魔女の手を引き、不安定な砂の足場を蹴って進んだ。シュガータの腕は冷たかった。強く掴まれても確かな脈動が感じられない。


 木々に空までも塞がれた暗い森へ入り、ランスロットは立ち止まった。深く積もった枯れ葉を掘って、その下の重い鉄戸を引き上げる。息を切らして彼はその中の階段を示した。


「この先には灯台の地下がある。その先は島の裏側へ続いている」


 それだけ説明すると彼女を地下へ押し込め、古い鉄戸を閉めてしまった。彼は少女を守るつもりだった。守ったところで得られる結果など思いつかないし、その犠牲が幸福を上回ることは目に見えていた。ランスロットは何かに憑りつかれたように無心だったのだ。あさはかな行動は不幸を招くに違いなかった。それなのに彼は夢中になった。憎むべき魔女の盾となる覚悟だった。


 ランスロットの孤島は小規模だったため後回しになっていたが、王の捜索の手が入るのも時間の問題であった。そして王国の通達が届いてから数日経つと、黒い装甲の大型艦とその後に幾艘もの小型艦が到着した。十数人の狙撃隊を引き連れて指揮官は島を廻った。ここは最後の島なのだ。彼らは逃亡者が見つかる確信を持ち、執拗に探し回って居留まった。ランスロットは島の主としてそれに付き添った。町を探り洞窟を確かめ、彼らは日に日に抜け道へと近づいて行く。三日目の夜、ランスロットはシュガータを連れて島を出た。壊れかけの小舟はシュガータの逃亡手段だった。ランスロットは船を漕いだ。シュガータは、白い月を湖上に眺めていた。日の登る前に大きな島へ着いた。本島でないことは分かったので上陸し、シュガータは森に隠れた。


 そして悲劇は起こった。夜、遠くの沖合で火が燃え立つ様子が見えた。湖の孤島では惨い犠牲が払われ、乗り込んだのは騎士団の一人だった。ランスロットは人づてにそれを聞いた。彼はアヴァロンという若い騎士で、魔女を殺すことを心待ちにしていた処刑人でもあった。アヴァロンには恋人がいた。恋人は穏やかで優しい女であったけれど、あるとき別人のように変貌してしまった。その変貌は悲惨なもので、次第に耄碌していってパニックを起こし、恋人の制止を振り切って身を投げたという。そしてその原因が魔女であるというのだ。恋人を亡くしたアヴァロンは狂気に駆られ、魔女への余りある憎悪を抑制できなくなった。怒りは刃先を維持できなくなっていた。アヴァロンは最後の島を焼いてしまった。暗い内から松明で町を囲み、一斉に火を点けて蹴り倒した。町は焼けた。人々は死んでしまっただろう。無邪気な青年たちも、老いても心は明るかった長老も、幼くもみんなに慕われていた少女も、面倒見の良かった中年の母親も、祈りを教えた聖職者たちも。殺されたのだ。


 ランスロットは大きすぎる犠牲を知って、ようやく理性を取り戻し、冷静に考え込んだ。体が芯から氷に浸かったような思いを抱く。彼はただ、少しでも生活を共にした幼い少女を死なせたくないだけだったのだ。それなのに代償はあまりに理不尽で残酷だった。
 ランスロットはシュガータに尋ねた。


「君の罪である薬品製造とは何のことだ」


 逃亡中は静かすぎるほどに従順だった彼女は答えた。


「蘇生薬」
 彼女は灰色の目を上げる。


「死なない毒薬」


 真意を理解できない彼から顔を逸らし、彼女は遠い目をした。


 彼はそこで気づかなければならなかった。とっくに分かっていた彼女の嘘を今、暴くべきであるということ。だが彼は彼女に誓った。


「罪の証拠を消し去ろう。薬を知っている者は抹殺する」


 犠牲になった者へのせめてもの償いに。
 生きている者への確かな救いに。


「僕が新しい世界をつくる」




(6)


―――赤紫の毒薬は瓶の中で揺れていた。彼女の白い左手の上で。


「薬は苦いでしょう。だから角砂糖をたくさん入れるの」
童話世界の部屋の中で、幼い魔女は呟いた。


「やっと思い出してくれたし、そうだ、ロジックでも語ろうか」
 伸びた髪を撫でて、嘲るように喋る。


「ふふ、人間の哲学は厳格だよね。望んで疲れているんだね」
 魔女は朗らかな笑顔を向けた。細い指で小瓶を掲げる。


「殺したの?全員殺した?約束は守ってくれたの?」
 無邪気な瞳は赤紫の涙を浮かべる。


「あなたも嘘を吐いたのね。死んでいる年齢でしょう。あなたは蘇生薬を飲んだのね。私の有罪を裏付けただけじゃない」


 シュガータは泣いた。今まで耐えてきた苦しみの数は計り知れない。


「私はずっとここにいたの。あなたはなぜ戻らないの?」
 そして彼女は瞼を押さえた。プラスチックの目は簡単に作れるけれど、すぐに眼窩から落ちてしまうのだった。


「あれからすぐあなたは戦いを始めたわ。失敗しないと言った。いくつもの島へ行っては蘇生薬を回収してきた。薬は私の家系の財産源だった。多額の報酬をくれる家にはたくさんの蘇生薬があった。たくさんの人が何度も生きた。でもね、私の薬は道理に従った正当な効果があるの。どこかの神様が言ってたわ。人間は死んで、大きな川で記憶を流してこの世に戻るって。それを少し簡易化しただけなのよ。蘇生薬は忘却の川の代わりに人を清めて、同じ体へ戻す薬。蘇生薬を飲んだら生きられるけど、もしかしたら死ぬより辛い代償があったのかもしれない。私の家は何も知らずに薬を売った。買うのは悲しみで何も見えなくなった人か欲で目を潰した人かどちらかしかいなかった。だから誰も考えなかった。脳を腐らせ心を削る毒薬でも欲しがった。みんな論理なんて知らないの。だから何度も生きた人たちは記憶が無くなった。肉体も腐っていった。国は壊れかけていた。そこで、あなたたちが呼ばれたの。魔女の家系を根絶やしにしようと思って私を狙ったの。私は一人で逃げようと思った。でも舟が着いたのは湖の上の島だった。どうして私を助けるの?あなたはきっと大人じゃなかったのね」


彼女は息を吸い込んだ。左手の指の間からは血の色が滲んでいる。


「あなたは蘇生薬の無限の転生を阻もうとして、薬のある一家を探し出しては殺し尽した。あなたはすぐ王国に罪状をもらって、人の恐怖も憎しみも一挙に引き受けた。あなたは戦った。国の兵士はあなたを追った。

……ねえ、あの騎士とはどこで会ったの?アヴァロンも薬の犠牲者ね。恋人が自分を忘れたものだから気がふれて、私たちを憎んで殺しても殺し足りないほどだったのよ。彼はあなたを待ち伏せしたんでしょう。あなたは抵抗しなかった。境遇の理解できる彼を哀れんだのか彼に敵わなかったのか、あなたは彼に倒された。あなたは約束を失敗して、私に嘘を吐いて薬を飲んだわ。ああ、なんで私は薬瓶に服用量を書いておかなかったんだろう。あなたは量を間違いすぎた。薬を飲んでもふつうの人は数か月かけて忘れることを、あなたはたった数時間で忘れてしまった。私のことも覚えてないの?私のために生き直したのに、なんで私を置いてくの?」


 ランスロットは魔女を忘れて、帰り道も忘れてしまった。彼は目覚めた直後唯一覚えていた敵を殺し、一人当てのない迷子になって、国をさまよい続けた。向かってくる敵は全て倒した。一騎当千の騎士団員は己の力と残った蘇生薬とで、魔女の敵を一掃していった。彼は昔誓った新しい世界を夢に見ることもあった。しかしそれは自分の家への地図にはならず、ただ彼の心を蝕む障害にしかならなかったのだ。


 ランスロットは名前を忘れた。蘇生薬だけは手元に残り続けた。裕福な者の屋敷から奪った物だった。彼は生きた。何度でも生き直した。敵がいる限り戦うのだ。それ以外に理由はなかった。


 時代が進んで、王は死に彼を覚えている者がいなくなり、彼は剣を棄てた。彼は蘇生薬の断絶を諦めなかった。大きなトランクいっぱいに入った商売道具は強力な毒物だった。彼はなおも人を殺していたのである。世界中を営業範囲として旅をしていた彼の名前は、“オルガ”と仮につけられた。


「私はずっとここにいたの、灯台の下に隠れていたの。新しい世界ができるまで生き直したの」


 青年は初めて、腐りかけた脳味噌に激痛を覚え、重いトランクを取り落とした。シュガータは彼に背を向けていた。


「でも、もういいわ。私はあなたを待ってない」


 シュガータは部屋の隅のベッドを指差した。


「あなたよりずっと性能の良い騎士をつくったから。何度蘇生しても肉体は腐らない。ベッドに寝かせて栄養を塗って膿を拭いたら生き返る。ちょっと配合を間違えて敵愾心が強すぎたみたいだけど、私のことを忘れたりしないの」


 だから、と彼女は言い放つ。


「だから、もうあなたは解放してあげる」


 そして少女の姿は霞む。


「黒い譜面の招待状、受け取ってくれてありがとう」


青年は手を伸ばしたが届かずに、赤紫の血と涙は掻き消える。青年は思い出した。計算高い少女の本当の姿は、単なる寂しがりの子どもだったのだ。


 昔、彼が約束した時間に遅れると、少女は地下通路に作った薬棚を倒して彼を困らせた。あるとき魔女は彼と喧嘩をして、へそを曲げた挙句この薬棚に埋もれて気絶していた。彼はそれを見て心底自分の言動を後悔し、粉々に割れた薬瓶の中から少女を抱き起こした。すると、ばらばらと砕けた瓶が散らばる床で彼女は目を開けて、笑って彼の腕を抱き締めた。


「飛べたらよかったのに。剣も弓も届かない空にね」


 彼女は言った。仲直りした後と同じ言葉だった。
 青年は頬に張り付く冷たさに気が付いて、目を開けた。寝そべった視界に広がっているのは一面に氷の張った湖だった。彼は枯れた森の中の凍った湖の真ん中で、身一つで眠っていたのだ。彼は身を起こす。重いトランクはどこにも無く、魔女の招待状である黒い譜面も見当たらない。そして青年は見る。氷の下の奥底に、白い灯台が沈んでいた。彼は氷に手をついて目を凝らしたが、二度と灯台は見えなかった。彼の目から涙が流れている。透明の涙は氷を叩いた。


 彼の頭上に灰色の雲が広がって、静かな呻りを上げている。長い束縛を解かれた青年の傍らには、あの日の剣の代わりに一つ、大きな傘が置かれているのだった。




【あとがき】



まず、拙い文章を読んでくださった方に、心から感謝をお伝えしたいです。もし当作品により少しでも楽しんでいただけたなら、私としては一番の幸いであります。考え詰めた結果ごちゃごちゃしたストーリーになってしまいました。退屈だった方には申し訳ないです。


このストーリーを思いついたのは、Mili様の「Wich’sInvitation」を聞いている最中でした。魔女の話としてガラハッドを連想し、二曲をつなぎ合わせた結果、こんな物語ができました。もう一人登場した騎士の名前はYamatoKasai様の過去の楽曲から取らせていただきました。(なお作品中にMili楽曲製作者様のお名前を散らばらせてみました。分かりにくいかもしれません……)


私はMiliの音楽に日頃から元気をもらい、そのおかげで疲れたときも励まされ、がんばって過ごしております。五月にはMili初のミニアルバムが発売され、そのうえ素晴らしい企画に創作を出すことまででき、本当に嬉しいばかりです。最後になりましたが、感謝してもしきれないMili様の、過去の楽曲に挑む姿勢を心より応援しております。進化を続ける楽曲を楽しみにしています。作品を読んでいただけた皆さまありがとうございました。


Hueリリース企画・文章作品

Hueリリース企画は Miliの1stミニアルバム『Hue』 の発売を記念した ファンアート企画(非公式)です。 開催期間:2017/5/15〜5/24 小説・歌詞訳・詩など 個性的な文章作品が集結しています♪ ファン渾身の作品、必見です! Twitter【@hue_release_】掲載の イラスト作品も要チェック!

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